皆さん、10月というと、何を思い浮かべるだろうか。
私は、夫も娘も10月生まれなので、10月になると煩悩が増える。
アメリカでは、誕生日パーティというものが盛大に行われる。そんなことは予備知識で知っていた。しかし、実際、スゴイ。自宅でやるのは稀で、逆に至る施設で、”バースディ・パーティ企画しま~す”というのを見かける。科学技術館みたいな所から空手道場といった習い事の教室、娘が通うスイミングスクールでもそんなバースディ・パーティのパッケージがあった。公園にテント張ってバルーンでも飾り付ければ始められちゃう。もちろん、バースディ・パーティの専門施設もたくさんある。
娘はクラスのお友達の誕生日会で、同じバースディ・パーティの施設に3度行った。そこは、大きな体育館みたいな中にエアで膨らませた滑り台やらトランポリンやらがあって、初めの1時間くらい、皆そこでピョンピョンと思いっきり遊ぶ。そして、時間になったら、隣の会議室みたいなところに移動し、ケーキやピザタイムの始まり。皆が持ち寄った誕生日プレゼントを主賓の子に渡して、解散、という流れのところである。
親たちといえば、一度、その施設に子どもを送り込んだら、パーティが終わる時間まで、どっかに行ってしまう。一時的な託児所感覚である。参加費は全額、主賓負担。その代わり、子供たちは誕生日の子にプレゼントを持ってくるのが暗黙の了解となっている。
一度、主人がそのバースディ・パーティ施設に娘を迎えに行ったら、主賓の子が友達たちに囲まれてプレゼントを開けている光景を目にしてしまった。よく映像でみかける、あの典型的な光輝くような光景である。かなりインパクトがあったようで、帰って来たら、「娘の誕生日の時もそこでやろう」と言いだしたのだ。娘も、「やりたいやりたい」と言うではないか。
ありえない!
誕生日というと、あれですよね。自分の子どもが生まれた神聖な日。
そんな日に、流れ作業的にことを済ませるなど、逆立ちしても出来ない。
人数が多ければいいという話ではない。心底お祝いをしてくれる人たちだけで、全てのものに感謝しつつ、しんみりやりたいのである。願わくば、家族3人みずいらず、しっぽり行きたいところである。
しかし、アメリカにいる限り、そういう訳にも行かないご様子・・・。
とりあえず去年は、娘の誕生日の日に、クラスに人数分のカップケーキとジュースを差し入れた。これは、基本中の基本、誰もがやっている最低限のフォローである。
が、今年はこうはいかないだろう。アメリカにいると、誰もが一度は通る道、バースディ・パーティという険しい道を通らなくてはならない・・・。
そう考えただけで10月は全て枯れ葉色に見える。
そんな私を尻目に、10月というと、アメリカではハロウィーンである。イェ~イ!(お待たせしました。ここからが本題)
まず、学校のフィールド・トリップ(小遠足)と称して、近くのPumpkin Patch にみんなでくり出す。このPumpkin Patchというのは、農家などが、普段空き地になっているスペースに、たくさんのかぼちゃを転がしておいて、子供たちに自分の好きなかぼちゃを一つ選んで持って帰ってもらう、というもの。それだけじゃつまらないので、大抵、わらなどを積んだトラックの荷台に乗せてくくれたり、小動物と触れ合えるコーナーがあったり、クラフト・コーナーが出没したりといった催し施設が、この時期、あちこちで出現する。
クラスでは、そのパンプキン・パッチに行く前に、先生は”今だ”とばかりに、以下のようなものを教えだす。
つまり、ジャック・オ・ランタンが出来るまでの流れである。
seeds から始まり、vine → flowers → small pumpkin → large pumpkin → Jack o Lantan
というわけである。
ちょっとサイエンスが入っていて何だか得した気分だ。
ちょっとサイエンスが入っていて何だか得した気分だ。
これの発展形がこちら。
私は誰?クイズである。
1, I hold plants in the soil. → roots
2, I help hold up the plant.→ stem
3, I make food. → leaves
4, I make seeds. → seed coat
5, Most plants grow from this. → seed
さらに、たたみかけるように、こんな冊子が配られた。
10月は、子供たちに植物の成り立ちをインプットするのに先生もご執心。でも、一つのことを何度もしつこく、定着に持っていこうとする先生の心構えには、あっぱれ、である。
前にPoemでも触れたが、アメリカの学校は、このようにして、イベントに便乗してあれこれ教えるのが大得意である。日本では、お正月にお正月遊びなどをさせる学校もあるが、福笑いの”福”の漢字を丁度この時期に習わせるといったところまでは、さすがに合わせて来てはいないはず。
(実はそうだったりして。”文部科学省よ、ありがとう” と一応、言っておこうか)
こういったところが、アメリカの学校に教科書がなくて、教師の力量でいかようにも学習内容を組み立てることができる、その醍醐味があるように思う。
*良かったらボチッとしていただけるとハッピーです